第七話 「十六夜」 |
混乱していた頭が瞬時に凍りつく。 激しい雨音と乱れた息遣い。 嫌になるほど耳にこびり付く周囲の異音が、不快感だけを誘発する。 「――ぁっ」 「二度は言わない」 戦慄の刃。 鋭利な冷たさが皮膚を侵食し、喉を圧迫する。 ガクガクと震える身体と軋む心。 「ハイ・イイエで答えろ」 「は、はい……」 シフォンに出来た事はただ必死に頷くだけだった。 動くな――絶対なる命令だけに従って。 逆らおうなどと微塵も思わない。 死にたくない、ただそれだけがシフォンの全身を染めていた。 「"教徒"か?」 「きょ、きょう……?」 「―――」 「い、いいえ!」 喉元から感じる微かな痛みと温い液体の感触。 浅く切りつけられたのだと悟った瞬間、微塵も迷わず否定した。 ハイかイイエ。 哀れな虜囚者に許されるのは二つの言葉だけ。 「"皇"の手の者か?」 「い……いいえ……」 「―――」 「ほんとです、ほんとです!」 背中からの無言の圧力に、シフォンは必死で肯定する。 死への恐怖と非現実的状況に、半泣きになりそうであった。 とにかく、此処から逃げ出したい。 何もかも見なかった事にして、現実へ戻りたい。 シフォンは心から素直に吐露していた。 「……」 (う、うう……) 奇妙な沈黙が本当に怖い。 相手を怒らせてしまったか、何かに悩んでいるのか。 シフォンの命は今、背後の者の機嫌次第なのだ。 雨音が増していく礼拝堂―― 強張る身体にびっしょり汗をかいて、シフォンは硬直していた。 「……貴様、何者だ」 「ぇ、あ……」 「答えろ」 「ひっ、答えます答えます! シ、シフォン=ノーブルレスト。此処に宿を求めて――」 刃の脅迫に、シフォンはベラベラ喋る。 そこで初めて、背後の気配が若干変化した。 「……宿?」 「そ、そうです。だ、誰も居ないと思って、それで……」 「……」 突きつけられた刃に動きは無い。 必死で現状を話すシフォンは、我が事を言葉にする内に少しだけ平静を取り戻した。 (な、何なんだよ、これ……何がどうなってるんだ……?) 今日一日、特に何事も無く平和だった。 奇妙な女の子と話したくらいで、此処へ来て後は寝るだけ。 明日から又就職口を求めて街中を歩き、ご飯はどうしようかとか考えていた。 ――なのに、突然現実は変貌した。 日常はあっさり覆されて、夜の闇が自分を食おうとしている。 どうして僕が……? 怒りも悲しみも生まれず、シフォンに押し寄せるのはただ疑問だった。 赤いローブ、怪しい人影、顔見知りの女の子、背後からの刃。 教徒、皇、姫君―― (……姫君?) 『――です。御安心下さい』 『……や、約束は守ります。ですから、あのコを返してください』 雨音に混じって聞こえるもう一つの異音。 緊張にふら付く視界を前へ向けると、赤いローブの者達が話し合いをしている。 我知らず、耳を傾ける。 『御召しモノ――大層御似合いでございますよ、姫君。 我らの贈り物、さぞ喜ばれたようで』 『……』 間違いない、ニーコを姫と呼んでいる。 シフォンは愕然とした様子で話を聞き入っていた。 いつしか背後への警戒も忘れている。 『紅こそ誓いの印。 ですが――今一度、お聞き致します。 我らが"神"に絶対の忠誠を誓いますか?』 (贈り物……? あの趣味の悪いローブが? 神って……ニーコ、お前……) こんな夜中に女の子を連れ出して、宗教勧誘をしている。 まともな団体である筈が無い。 シフォンの位置からではニーコの様子は伺えないが、喜び勇んで此処へ来たとはとても思えない。 何か理由が―― 「――去れ」 「ひぐぅっ」 息が詰まる。 押し付けられた刃から――否、圧倒的な気配に圧迫された。 蛇に睨まれた蛙の如く、全身が恐怖で動けない。 「この事は忘れ、今直ぐ立ち去れ。命までは取らん」 「…あ、で、でも……」 「去れ」 凍てついた男の声。 感情をどれほど殺せばこのような声になるのか。 自分と同じ性別なのは辛うじて聞き取れても、住む世界がまるで違う。 殺すと言った以上、本当に殺すだろう。 浮ついた善意や情と完全に決別している者―― ――見逃してくれる――僕を。 みっともなく命乞いをしなくても、解放してくれる。 束の間訪れた好機だった。 突然湧き上がったこの不幸から逃げられる。 何の関係もない。 過ちを犯した覚えも無ければ、巻き込まれる所以も無い。 何も知らないまま死ぬなんて御免だ。 シフォンに迷いは無かった。 ――その姿を見なければ―― 風雨に晒されながら、立ち尽くす女の子。 『姫――御決断を』 『……っ……』 グッショリ全身を濡らし、小刻みに揺れている。 寒さに震えているのか、恐怖に凍えているのか。 彼女もまた、選ばなければいけない。 答えを強制された選択肢に―― (……ニーコ) ――思い出す。 虐げられる現実、泣き崩れる女性。 幼い自分の居場所が、女性の泣き声で満たされていた。 父に純潔を奪われ、未来を失った女性達。 彼女達が何をした? 弱いからいけなかったのか? 強くなければ自由すら許されないのか? 恐怖に怯えて屈する人間の気持ちは、非情な現実には意味など為さないとでも言うのか? そんな父親と離別したのは――何の為に・・・・・・! 「――何をしている」 決断を迫る背後の男。 恐怖は微塵も消えていない。 殺されると本能が悲鳴を上げている。 選択は一つ。 「……嫌だね」 漆黒の夜に――紅の華が咲き乱れる。 to be continues・・・・・・ |
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