第八話 「衝動」 |
聖なる礼拝堂に、禍々しき鮮血が舞う。 時間軸が狂ったかのように、ゆっくりとゆっくりと……紅に染まっていく。 視界が朱に滲み、頬に紅の雫が流れる。 髪が、目が、鼻が、口が、耳が、首が。 ・・・血の雨を…浴びているのだと知る。 祷りを捧げる時間も神は与えてはくれなかった。 シフォンは全身を血に濡らし、ただ虚ろな目を虚空に向けていた。 (――――) 神に願いを捧げる教会。 正賓なる建物で死んでいく自分が、性質の悪い冗談のように思える。 見知らぬ女の子なのに、言葉だけでも庇った己が滑稽だった。 赤の他人の為に死ぬ。 横脇で地に臥している男のように―― (……え……?) 「嗅ぎつけられたか」 冷徹な男の声が半ば眠った意識を呼び覚ます。 傍らで倒れる一人の男。 喉を切断されて、激しい血を撒き散らして死んでいる。 はっと気付き、シフォンは自分の喉を素早く触る。 斬られて――いない? ならばこの降りかかった血は…… 「お前の勝手だが、面倒は見ないぞ」 「え――あ、はい」 事態が理解出来ないまま、シフォンはゆっくりと立ち上がる。 急速に覚醒する意識は感覚を蘇らせて、シフォンは嗅覚と触覚に激しい刺激を感じた。 鼻につく濃厚な香り。 身体中を縛り付ける生々しい感触。 喉からわきあがる酸っぱさを必死で堪えられたのは、隣で平然と立っている男のお陰だった。 黒装束を身に纏った男。 闇を凝縮したような髪。 顔立ちは恐ろしいほど整っており、冷血な横顔は見る者を虜にしてしまう。 黒の手袋で握り締めている刃。 甘やかな感情の一切を許さない銀色に輝くナイフより、鮮血が零れている。 僕を脅した人間。 そして――たった今、殺人を犯した男。 「――な、何で……」 殺したんだ、と口に出せない。 殺すという言葉が、これほど自分に似合わないとは。 こんなに簡単に、日常を食い破るなんて……思わなかった…… 「逃げろと忠告した」 「え……」 「何故、逃げない」 質問に答えず、質問で返される。 今度はナイフを突き出されたりはしなかった。 相対する男達。 シフォンは俯いた。 「……は、初めてだから……」 男には到底理解出来ない感情であるのは分かっている。 分かっている上で、シフォンは言葉にする。 それが、シフォンにとっての日常である限り。 「こ、この都で……最初に出逢えた女の子だから…… 友達になれそうだって……思えたから……」 「――」 男の心に波風一つ立たないであろう心の吐露。 言葉にして、シフォンはようやく自分を認識する。 彼女が誰であろうと、関係ない。 友達になれそうな女の子だった。 明るい日向の中、公園でタイヤキを食べるだけで楽しそうにしていた。 こんな――狂った世界なんて、あの娘には似合わない。 「――そうか……」 シフォンは顔を上げる。 嘲る訳でもない、皮肉る様子も無い。 怒りも感じていない、馬鹿にしている訳でもない。 ――何も感じていない様子でもない。 まるでシフォンの言葉をそのまま受け容れるように、男は無言のまま顔を外に向けている。 大雨の中、外に立っている女の子。 その周りを取り囲む、紅いローブを羽織った集団。 ――。 集団?! 「連れて行くようだな」 事実を淡々と告げる男。 事態はシフォンを待ってはくれない。 大勢の者達に囲まれて、俯いて歩みだそうとするニーコを見てシフォンは肌を泡立てる。 「ニーコ!」 「やめておけ」 踏み出そうとする一歩を、男が止める。 「見張り役がこの男一人とは限らない。下手に動けば、殺されるだけだ」 「見張り? ――こいつが……」 「奴らの手先だ。周囲を警戒していたのだろう」 シフォンは歯噛みする。 考えてみれば当たり前だ。 人気の無いこの区域の、静かな夜の時間帯であれ、あんな怪しい密談を外で堂々とはしないだろう。 最初からこの教会は見張られ、事前に探られていた。 ノコノコと足を運んだ自分を、男を含めて警戒するのはむしろ当然だ。 見張り役を悲鳴すら許さず殺したとなると、この男は別口なのだろうか? もう、理解の範囲を超えていた。 「一体……何が起きてるんだ……」 「お前には関係ない」 シフォンの頭の中で、何かが音を立てて弾けた。 理不尽な状況が、不明な事態が、不利な状況が、怒りを煽り立てた。 立場や実力の違いなんて、もう関係なかった。 「女の子が連れ去れてかけていて! 目の前で人が死んで! ナイフを突きつけられて! 死にかけて! 関係ないの一言ですまされてたまるかっっっ!!!」 非力な少年の叫びは、雨音にうち消される。 強大な非現実を前には、現実的な言葉など無意味とばかりに脆く砕ける。 シフォンはそのまま男の胸倉を掴む。 「奴らはなんなんだ! 何でニーコが巻き込まれている!」 男は眉一つ動かさず、シフォンを睥睨する。 「ニーコ…… お前は彼女を知っているのか」 「僕の質問に答えろ!」 「……」 切れ長の黒き瞳に何の感情も見出せない。 どれだけ主張しても届かない暗い瞳を見て、シフォンは歯噛みする。 悔しかった。 この男にしても、ニーコにしても、外の怪しげな連中にしても――自分は無価値。 無意味な存在。 只の一般人、ひ弱な被害者。 抵抗すら許さず、ただ目撃者として消されるだけの運命。 ――隣で転がる骸と同じでしかない。 「――分かった。一つだけ、一つだけでいい。教えてくれ。 奴等は――ニーコの敵か?」 「……」 「頼む」 男に答える義理はない。 義務などありはしない。 だから――男はただ一言だけ口にする。 「――恐らく」 権利も義務も無い。 ゆえに口にするのは男の、純然たる意思。 シフォンは静かに言った。 「……ありがと。よく分かった」 それだけ聞けば十分 恐怖は怒りが燃やし尽くしてくれた。 シフォンは男に背を向けて、唯一の己が武器である短剣を拾い上げて、 「どうするつも――」 ガチャンッ 男の声を号令に、窓を蹴破って跳び出す。 狙いはほんの一瞬。 全身を穿つ大量の水滴をものともせず、シフォンは果敢に駆け出す。 ニーコを取り囲む連中が一斉に振り向く。が―― 「そいつから離れろ!」 全ての者達の対応が、遅れる―― 短剣を一閃し、取り囲む者達をほんの数歩だけ離す。 傷一つつけられなかったが、シフォンの狙いは果たせた。 「そ、そんな――貴方は……」 「逃げるぞ!」 呆然とたたずむ目の前の男に蹴りを入れて、脇へどかす。 濡れた細い指先をしっかりと握り――シフォンは迷える子羊を引き連れて夜の世界へ走り出した。 to be continues・・・・・・ |
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