第十話 「甘受」 |
周囲を警戒。 薄汚い雑居ばかりの旧区画は日が沈むと、闇に沈んでしまう。 貧窮地域の為無駄な灯りも無く、皆寝静まってしまう。 特に腐敗された建物が多く放置されているこの辺りの地域では、人っ子一人立ち寄らない。 加えて、激しい風雨である。 割れた窓ガラスから外を見回し、シフォンは息を吐く。 人一人抱えての逃走劇を繰り広げ、不案内な路地を走り回った。 振り切った感触はあったが、多数の追っ手が差し迫っている状況だ。 敵の正体は判明していないが、簡単に諦めるとは思えなかった。 状況はシフォンに有利ではあるが、戦力的に相手が圧倒的に上である。 乱立する廃墟の一つに灯り無しで隠れていれば気付かれる可能性は低いが、警戒するに越した事は無い。 「…落ち着いたか?」 「…は、はい。お恥ずかしいところをお見せいたしました……」 薄暗い部屋の中で、小さくニーコは頭を下げる。 怪しい身なりでどこまでも恐縮する女の子に、シフォンは苦笑を禁じえない。 やっぱり普通の女の子だ、そう思えてしまう。 シフォンは窓から離れて、ニーコの前に座った。 「さて――とりあえずだ」 真剣な顔のシフォンに、ニーコは俯く。 「……申し訳ありません。シフォン様に多大な御迷惑を……」 「いや、もうそれはいいんだ。僕が自分から立ち入った事だ――と、簡単には割り切れないけどな。 緊張しっぱなしのせいか、段々現実感が麻痺してきた」 薄汚い父から逃れて、自立した日々を送る。 無一文で何のあての無い生活の始まりだったが、それでも希望はもっていた。 なのにここへ来て、次から次へとおかしな事態に巻き込まれている。 不気味な服装の集団に、ナイフを突きつける男。 惨殺された死体に、脅迫される見知った女の子。 脅迫に逆らってニーコを攫ったのも、急速に包み込んでくる闇から逃げたかったのかもしれない。 シフォンとしては、藁をも縋りつきたい心境だった。 「聞かせて欲しい。 ――君は一体何者なんだ?」 「……」 俯いたままのニーコ。 返答を促す真似はせず、シフォンはただじっと待った。 ――本当は抵抗はあった。 正体を知るという事は、事実を知るという事だ。 逃げ出す道を自ら防いでしまう。 シフォンは戦士ではない。 毎日をただ当たり前に生きている一般人だ。 心は今でも、陰鬱に沈んでいる。 でも、それは目の前の女の子も同じだ。 だからこそ――逃げ出すならこの娘も一緒に、とも思う。 静かにシフォンが問い掛けていると、 「……っ」 ――そっとサングラスに手をかけ、閉ざされた瞳を解放する。 薄く透き通ったマスクも取り外し、ずぶ濡れのローブを頭から脱ぎ捨てた。 隠されていた容貌と身の上。 覆われた殻を脱ぎ捨てて、今女の子は清廉なる輝きを放つ。 「……身分を隠して偽りの証を立てた事を深く陳謝します。 初めまして、シフォン様。 シェザ−ル国第二皇女、ニンファ=シェザーリッヒと申します」 「――シェ、シェザール国の皇女って……」 「……この国の姫としてこの身は在ります」 「……」 もうシフォンの頭の中は真っ白だった。 非日常の中で唯一日常に近かった友達。 その実――幻想的な世界にいる女の子だった。 身分もそうだが、ローブに包まれていた容姿に言葉を失う。 水滴が零れる銀髪は、闇夜の中の星のように目を奪われる。 可愛らしいサンゴ色の唇に、純真無垢な瞳。 愛らしさと美しさがこれほどまでにエッセンスされた女の子は、この世にいないだろう。 平凡な女の子が、美しき姫へと変わる。 本当に御伽噺の中に迷い込んでしまったかのようだった。 シフォンは唾を飲んで、ニーコ―ニンファ―をまじまじと見つめる。 「……シ、シフォン様、その……」 「……」 「……わ、わたしのような者の顔を見ても、し、仕方ないと思いますし…… えと、恥ずかしいので……」 「――あ、ああ! ごめん、ごめん」 頬を桜色に染めて俯くニンファに、シフォンはようやく我に返る。 今までの人生で初めてだった。 女の子に目を奪われるなんて―― 羞恥に染める表情ですら、心すら奪われそうな可憐さがある。 必死で自制を振り絞って――少しだけ距離を取って――こほんと咳払いする。 「と、とりあえず、その……御姫様だったとは思わなかった……」 「……本当に、申し訳ありません。わたし、嘘を……」 「別にいいって。それより僕こそ平民なのに姫様に失礼な事言ってしまって……」 どこの世界にお姫様とタイヤキを食べる男がいるんだ。 振り返ってみて、暴れだしそうな恥かしさをシフォンは感じてしまう。 そんな…、とニンファは首を振る。 言い様のない重苦しい沈黙。 理解や困惑を超えて、言い出す言葉が二人には無かった。 見知った女の子が遠い世界の女性だった事実。 その事実を手を差し伸べてくれた少年に知られた事。 暗闇の部屋にわだかまった空気に、 「……ニ、ニーコでいいかな?」 「シフォン様……」 「ごめん、まだ混乱してる。君にどう接していいのか、全然分からない。 だから、その――ニーコで」 家出の少年と王族の少女。 階級は月とすっぽん、容姿や身形も雲泥の差。 大切に育てられた気品ある御姫様に比べて、底辺の家庭環境で育った少年。 姫君であれ何であれ、一人の女の子である事に違いない。 そう言い切れるほど、シフォンは大人ではない。 どこぞとも知れない少年を友人だと認識出来るほど、ニンファもまた強くない。 たった半日。 ほんのささいな神の悪戯で出逢えただけの関係。 行きずりで求め合っただけの浅い付き合いに過ぎない。 己の弱さゆえ、身を寄せ合っているだけの二人。 ニンファは一瞬呆然とし、次の瞬間必死で頷いた。 「はい! そう……呼ばれたいです」 「う、うん。じゃあ――ニーコ」 「…はい、シフォン様」 そんな二人でも――仄かな温かさはあった。 冷え切った空気。 天から降り落ちる雫は勢いを増し、豪雨となりて乾いた世界を濡らす。 人気の無い寂れた教会。 錆び付いた門構えの前で――多数の骸が転がっていた。 地に伏した人間の冥福を祈るように、艶やかな鮮血の華が咲いている。 神の宮の前に並ぶ沢山の惨殺死体。 抵抗した跡も残されているが、惨たらしい末路を迎えた人間に何の意味など無かった。 骸・骸・骸…… 死に満ちた狂気に――男は一人身を浸していた。 血染めのナイフに、返り血が染み付いた己の姿。 大勢の人間を葬り去りながら、男の表情に何の感慨もない。 「――あ、ああ……あ……」 累々と横たわる死体を前に、もう一人命ある者が腰を抜かしている。 身につけていたローブははだけており、その素顔が晒されていた。 表情は恐怖に支配されており、垂れ流した涙と唾液で醜く歪んでいた。 先程教祖に報告と伺いを立てていた一人の信者。 彼は一部始終を目撃していた。 銀色に光るナイフが根元まで咽喉に突き刺さった瞬間。 倒れる教祖。 騒ぎ立てる信者達。 ――教会より出でた黒衣の死神。 圧倒的だった。 死神は物言わぬまま、次々と命を刈り取っていった。 抵抗など無意味だった。 心臓を刺され、咽喉を斬られ――集った神の使いは死に絶えた。 腕に心得のある者はいた。 "魔法"を扱える者もいた。 だが――死神に何の意味も為さなかった。 平等に、命を刈り取られて終わった。 一人を残して―― 「あ……ヒァっ!?」 死神が――こちらを向いた。 何という……冷たい目。 ゴミでも見るような――いや、自分など彼は見ていない。 瞳に映る価値も無い。 黒衣の男が一歩足を歩むのを目の当たりにして、信者はバネ仕掛けのように起き上がって地に手をついた。 「ま、待ってくれ――! 殺さないでくれぇぇ!!」 「……」 ジャリ、靴が地面を擦る音が聞こえる。 ヒィ――信者の口内で悲鳴が木霊する。 「お、おねがいします、おねがいします、おねがいしまひゅうぅぅ!!」 声は上擦り、まともな発声にもなっていない。 濃密に圧迫する死への絶望に、信者は失禁すらしていた。 ただ助かりたい、ただ生きたい。 生きたい、生きたい――死にたくない。 圧倒的な恐怖は、日々信仰する神の幻想にすら勝った。 大雨に頭から濡らし、泥だらけの地面に額を擦りつける。 ――訪れる沈黙。 一秒一秒が、信者の胸を不安で切り裂く。 窒息しかねない沈黙の時間が過ぎて―― 「――生贄を連れ去った男に心当たりは?」 「ぇ、ぁ…?」 「心当たりはないかと聞いている」 「ひっ!? そ、その……」 "聖女"。 神の信託に則って、教祖が信を置く者達は集まった。 今宵、この静謐な教会において行われる筈だった儀式。 その聖女を突如攫っていった男の正体―― 知りたいのはこちらだった。 追っ手を数名差し向けたが、まだ連絡は無い。 「……」 「そ、その……」 涙が零れる。 ここで話さなければ死ぬ。 しかし、逃走者の正体を知らないのは信者も同じ。 命乞いに必要な情報を何も持っていない。 持っていないのだ―― もしも知っていれば、一から十まで全部話していた。 それで助かるのだ、命以上に大切な事なんて何も無い。 でも、話せない。 「……知らないようだな」 「ま――待ってください! 追っ手を向かわせているので、す、すぐ――グゲッ」 語る言葉は何もない。 口内に突き刺さったナイフが、声をかき消した。 血泡を吐いて倒れる信者より、男はナイフを引き抜く。 教祖と信者達。 今宵集った者達全員が、事切れた。 男は水と血に濡れたナイフを払い、死体の山を歩く。 倒れた教祖の傍で腰を下ろし、 「……」 ――死体の傍に転がっていた黒い小瓶を手に、踵を返した。 死者達への手向けは無い。 命亡き身体に向ける言葉もない。 ――黒衣の男は、夜の中へ帰っていった。 to be continues・・・・・・ |
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