第十二話 「別離」




 
シフォンとて逃げ切れると思っていた訳ではない。

敵の姿が見えなくても、敵の気配が無くても――心の奥底で沈殿した不安があった。


(……振り切ったと思ったんだけど……)


 似たような廃墟はこの旧区画には沢山ある。

追っ手を撒いて、ランダムに選んだこの建物に何故潜んでいるのが判ったのか?

考えて――やめた。

そもそも狙われた事も無ければ、経験も無い。

相手の技量は分からないが、こちらは素人なのだ。

何か足取りを追える手掛かりを掴まれたのかもしれない。

シフォンは唇を噛み締める。

――今回の一件、一番悪いのは当然誘拐犯だ。

しかし、事態を無闇にかき乱してしまったのは自分だ。

責任は取らなければいけない。


「――ニーコ、敵が来た。落ち着いて聞いてほしい」

「……シフォン様……」


気丈に振舞おうとしているが、透明な光を放つニンファの瞳は微かに揺らいでいる。

小さな不安に陥っているニンファを見て、不思議にもシフォンの心が熱くなる。


「今から僕が何とか追っ手の注意を引き付ける。
その間にニーコは裏手から逃げて城へ帰るんだ」

「シ、シフォン様!? 
それは駄目です、絶対に駄目です!」


 濡れたシャツにしがみつくニンファの手を、そっと握る。


「――本当にごめん。何もかも僕の責任だ。
でも、僕では……君を助けられない。助けられないんだ!」


 何と言う事だろう。

身勝手な気持ちで彼女の決意を無駄にしてしまったのに、償える事も出来ない。

ニンファの大切な友人。


取引を邪魔してしまった以上、その子の命はもう……


だからせめて――シフォンはニンファの細い肩をぎゅっと掴む。


「城へ帰って、君のお父さんに相談するんだ。きっと助けてくれる」


 最早、事態はニンファやシフォンの手に負えない。

今まで大切に育てられてきたお姫様。

世間を知らないで育ってきた少年。

無力な者達が手を取り合ったところで、どうしようもない現実が目の前に迫っている。


「いやです。……わたしにシフォン様を見捨てろと仰るんですか!」


 こんな土壇場で、気付いてしまう自分が情けない。

彼女は弱い? とんでもない。

やっぱり、この娘は噂に名高い皇の娘だ。

この状況で、こんな身も知らぬ赤の他人を心配している。


「このままでは二人とも捕まる」

「でしたら、わたしが!」


 彼女は知っている。

ここで自分が投降し、シフォンの命乞いをする選択肢がある事を。

シフォンが取ってしまった行為は覆せないが、根本は誤解なのだ。

事情をきちんと説明すれば分かってくれるかもしれない。

それに、友人だって殺されたかどうかは分からない。

攫った友人は誘拐犯にとって絶対の切り札だ。

安易に殺してしまえば、王族の姫君を捕らえる絶好の機会を失う。

彼らにとって、今夜の取引は絶対に成功させなければいけないのだ。

自分さえ、犠牲になれば――


「大丈夫。僕だって死ぬつもりは無い。
案外、敵は大した事は無いかもしれない。
適当に暴れて逃げるから」


 勿論、そんな保証はどこにもない。

一度目は確かに逃げ切れたが、闇夜で不意をうまくついたからでもある。

今度は敵も警戒しているだろう。

楽観は出来ないが、その事実をニンファに伝える訳にもいかなかった。

冷たい言い分だが、ニンファが出て行っても捕まって終わりだ。

それなら自分が敵の注意をひきつけた方が可能性はある。

無論、シフォンとて理解している。

可能性があるとはいえ、0が1になる程度だという事に。

敵集団の正体は判明していないが、まがりなりにも皇女誘拐を企てている者達だ。

捕まってあっさり許してくれるとは考えられない。

最悪――死。


「……でも、でも・・・・・・」

「それに――」


 シフォンは恐怖も何もかもを唾と一緒に飲み込んで、頷いた。

心が痛む。

大丈夫――そんな気休めも満足に言えなくて。


「君の友人も、何とかする。外に居る連中が知ってる筈だ。
助け出せないかもしれないけど、手掛かりは必ず掴んでみせる」

「ほ、本当ですか・・・?」


 人を疑う事を知らない純粋な娘。

ただ、安心させる為だけの軽い嘘だけを残した。


「話し合える相手じゃないだろうけど――何とかやってみるから」


 これ以上、とても目をあわせられない。

でも彼女も、彼女の友人も、助けてやりたかった。

自己責任――自己満足だと承知の上で。

シフォンは窓の外の様子を見る。

建物の外を警戒し、中の様子をうかがっている面々。

最初の奇襲と、無闇に戦わずに素早く逃げた事が幸運だったようだ。

明らかにこちらを警戒し、即座に行動に移すのを恐れている。

今なら、まだ逃げられる。


「今しかない。裏手から外へ出て走って」

「……分かりました。シフォン様の仰る通りに。
あの・・・・・・シフォン様」

「何?」


 ニンファは俯いて、声を震わせる。


「――城で、御待ちしております。
最後まで身勝手ではありますが、あの子をどうか――」

「・・・全力は尽くす。約束するよ」


 ――ちゃんと笑顔で向き合えているだろうか?

わき上がる罪悪感を、懸命に押し殺す。

自分を守れもしないくせに――心の中で悪魔が笑う。

唇をかみ締めて、シフォンは内なる気持ちを抑える。

ニンファは消え入りそうな声で話す。



「シフォン様と……また、あの公園で御話したいです。
今度はニンファとして、貴方と一緒に……」


 敵がそう簡単に突破を許してくれるとは思えない。

何とか立ち向かうつもりだが、無傷ですむ可能性は恐ろしく低い。

それに、ニンファはこの国の姫。

気軽に逢える身分ではない。

王に全ての事情を話せば、間違いなく解決するまで城から出そうとはしないだろう。

厳重な警護と監視。

庶民には絶望的な壁だ。

でも――必死な顔で自分を見つめるニンファ。

彼女もまた、不安なのだ。

どこまで優しくて、どこまでも寂しくて。

攫われた友人、ノエル。

救うと決意し、父と姉に背を向けてしまって――助けられなかった。

悲しい現実。

ニンファもシフォンも――見える事の無い明るい兆しに縋り付く。

約束という名の、儚い契りを。


「――またいつか、な」

「はい」


 心はほんの少し軽くなる。

悪魔を、はにかむように微笑む女神が消してくれた。

シフォンは唯一持って来れた短剣を取り出し、脱ぎ捨てられた赤いローブを羽織る。

サングラスを目に、泥で汚れてしまったマスクを身に付ける。

目を丸くするニンファが少しおかしくて、シフォンはマスクの奥でくぐもった笑いを上げる。


「少しでも敵の目をひきたいからね。――行くよ」

「――どうぞ、お気をつけて」


 話は終わる。

シフォンは表へ、ニンファは裏へ。

離れていく小さな足音を背に、シフォンは全速力で飛び出していった。
 
 

























 




to be continues・・・・・・







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