第十二話 「堕天」 |
ノーブルレスト家の養女として育てられたアイナ。彼女の幼き日々は大きな孤独と小さな愛情で思い出に綴られる。 父親の心の冷たさに触れ、深い孤独感の中にあった少女。 奔放な兄の温かさに触れ、小さな救いを与えられた妹。 父にとって娘は愛欲の対象、兄にとって妹は可愛い存在――言葉でこそ同じ愛でも、向けられる想いは全く別物。 性質の異なる二つの愛を向けられて、友達のいない女の子は成長の可能性を閉ざし、自分の住む世界を閉ざした。 少女の檻は恐怖の対象から身を守る防衛線であり、最愛の存在と二人っきりで遊ぶ境界線だった。 毎日が地獄――けれど、小さな幸せもあった幼少時代。 真っ直ぐな愛と歪な欲望、健やかな兄と爛れた親、悲しみと喜びで揺れる天秤。悲しくも、喜びもあった過去。 不幸だったかと聞かれれば首を傾げ、幸せだったかと言われれば悩んでしまう。 おしとやかで上品さの伺える淑女か、人に害を与える毒婦か―― 美しく育った少女の未成熟な心は、今も不安定に揺れている。 次第に雨脚が強くなってくる中、暗がりの裏道を歩くのは気持ちの良い事ではない。 燃えるような真紅の髪は濡れており、透けるような白い肌に水滴が衣服を通じて染みている。 旅を快適に過ごす旅装束も肌寒さから完全には守ってはくれず、深い感触が少女の瑞々しい柔肌を寒さに蝕む。 そんな無粋な雨だが、今夜この時ばかりは天からの恵みのように感じられた。 ――累々たる死体の山と、死臭が燻る廃墟。 炎に巻かれた地獄絵図は凄惨な状況をリアルに演出し、夜の闇が不吉な空気を一層濃くしている。 かつて命だったモノは既に形を成しておらず、人の形をした炭だけがゴミのように転がっていた。 壮絶な死を遂げた死体は無念だけを訴え、激しい雨にうたれて絶望の涙を流していた。 灯りの途絶えた時刻に訪れた二人の少女、ミフレ・ウオンクリーナとアイナ=ノーブルレスト。 旧区画に位置する第一役所にて爆発を感知した彼女達は、急ぎ向かった先がこの殺人現場だった。 新米だが正義感の強いミフレは早くも混乱から立ち直り、応援要請と現場確認を行っている。 経験が浅いが行動力だけは大したもので、泥だらけになりながらも必死で現場を調べていた。 ――共に行動した少女の姿が消えた事さえ、気付かずに。 「雨が強くなってきましたわね・・・・・・急ぎませんと、洗い流されてしまいますわ」 髪が濡れていくのは雨なのか、それとも汗なのか―― 焼死体が転がる凄惨な現場から離れようとしているのに、息は乱れ胸の鼓動が不規則に震える。 暗闇の奥へと続いていく、真新しい血の跡。 雨にぬかるんだ土に染み込んでいるが、確かな痕跡として残されている。 雨雲で星が隠れる深夜でも見える血痕は、血を流した本人の深い負傷を物語っていた。 流血は膝を没し――血を流しながら、引き摺るように裏道へと逃れている。 アイナは緊張と不安に震えながら、ギュッと強く握り締めた。 ――死体現場に落ちていた、サングラスを。 (兄さん――どうか、ご無事で) 兄が最後に送ってくれた手紙を読んだ時の憤慨は、既に心配で塗り潰されている。 今はただ自分にとって唯一の存在の身を案じ、夜の弧道へ飛び込んでいた。 数多くの死体が転がる殺人現場から離れようとする、第三者の存在―― 誰かに深手を負わされた事を考慮しても、殺人犯の可能性は大いにある。 最低でも、今晩起きた事件について深く知る人物であろう。 加えて、現場に落とされていたサングラス――数少ない噂話にあった、兄の手掛かり。 アイナ=ノーブルレストは聡明な少女だが、兄シフォン=ノーブルレストの要素が加わると盲目になってしまう。 真実を家族愛で捻じ曲げてしまい、その歪みすら至らぬ兄への不満として受け入れる。 醜悪な親から飛び出す行動力は成長が生んだ強さ、けれど閉ざされた心は一時も開放を許さず。 少女はただ無防備に、悪魔が撒いた撒き餌に誘い込まれた。 「・・・・・・? 血が、途切れている――やはり遅かったのでしょうか」 サングラスを握り締めたまま、地面に視線を落とすアイナ。 建物と建物の間の一本道を汚す血は途中で完全に消えており、その先には奥の見えない泥の道しか続いていない。 念の為地面に触れてみるが、やはり痕跡は残されていなかった。 恐怖と不安は雨に洗い流されて、心なしか早まっていた足も完全に止まる。 周囲への警戒は脱力と同時に消えて、また見えなくなった行先に肩を落とすのみ。 ――その瞬間を、見逃さなかった。 「動くな」 「――っ!」 アイナの白い首筋に突きつけられる、赤いナイフ。 血に染まった刃物は不気味な温かみを少女に与え、反射的な抵抗すら殺いだ。 たった一秒間の油断が、全ての行動選択を排除。 残されたのは絶望的な結果と――少女の心を瞬時に埋め尽くす驚愕のみ。 (そんな、いつの間に!? 尾行されていた・・・・・・? いいえ、一本道で気付かない筈がありませんわ!) 場所を移したといっても、殺人現場を見た後である。神経は過敏に。 血の跡を辿る自分こそが尾行者の心境、警戒は入念に行っていた。 殺気の類に経験はないが、人間の気配を敏感に感じ取れる自信がある。 ――毎夜、ベットの中で何時訪れるか知れない父に警戒していたのだから。 「何者だ」 「――貴方こそ」 「質問に答えろ」 研ぎ澄まされた歯が、無遠慮に少女の柔肌に食い込む。 苦痛を感じさせない生々しい傷が、より恐怖を煽る。 悲鳴を出さなかったのは、今晩続く異常な状況に心まで飲み込まれてしまったのか―― アイナは目の前の闇を見据えたまま、口を開く。 「通りすがりですわ」 「・・・・・・名は」 「アイナ。家は捨てました」 嘘はつかず、真実は語らない。現状で少女に出来る、効果の薄い対応策。 愛情の欠片もない家の性は確かに不要だが、兄との繋がりを示す世界で唯一つの枕詞。 家を捨てても名乗るだけの価値は持ち合わせていた。 「――振り向かず、このまま立ち去れ」 「許して下さいますの?」 「忠告はした」 際どい状況にアイナは戦慄を必死で抑え、状況把握に努める。 頭上から降り注ぐ雨が、今日ほど愛しく思った事はない。 半ば現実感のない突如の修羅場から、現実逃避しようとする自分の頭を冷やしてくれる。 (・・・・・・冷静に、冷静になりなさい・・・・・・まだ、命は残されておりますわ) 感情無き冷たい脅迫者、押し殺しているが声の感じから男性。 首に突きつけられたナイフの脅迫は使い古されたやり方だが、単純で効果的。 自分を殺す気は無いが、恐らく次の瞬間に躊躇い無く殺せる。 今の最善は――忠告に従う事。 心を真っ白にして、無我夢中で走り去る。 ただそれだけで、危機的状況に晒された自分を救える。 不用意に地獄へ飛び込んでしまったアイナにとって、男の忠告は蜘蛛の糸に等しい。 何も考えず、従えばいい。そうすれば安心だ―― ――疎ましい父親の如き言い分に、少女の歪んだ心が怒りに軋む。 純粋無垢に生きる少女時代は、完全に踏み躙られた。 明日の安心を保証する親が、今の一分一秒を脅かし続けたのだ。 親を信じられない子供に、世界の誰を信じろというのだろう。 (・・・・・・兄さん、どうか私に力をお貸しください・・・・・・) 心に愛と憎悪を抱く少女、アイナ=ノーブルレスト。 異常なまでの不信は男の忠告を跳ね除け、父親譲りの欲望が訴えかける。 ――奪い取れと。 「今宵は雨が降り、肌が冷えますわね」 「不要な口を――」 「お怪我に染み入りませんか? お可哀想に」 「!?」 目の前にぶら下がる蜘蛛の糸は、平和な天国へ繋がっているのではない。 この世でただ一人愛する兄の小指に繋がる、アカイイトなのだ。 少女の手の中で、サングラスが握り締められている。強く、強く―― 「雨とは・・・・・・上空の水蒸気が冷えて、水滴となって地上に落ちてくる現象。わたくしは、こう呼んでおりますの。 天水」 「ガッ!?」 短い悲鳴の後に――背後で、激しい水音が立つ。 時が動き出した刹那を見逃さず、アイナは慌てず急いで距離を離す。 狭い一本道は選択肢を狭めるが、逆に右往左往せず次の行動を取る事が出来た。 血が滲む首筋を押さえて、アイナはゆっくりと振り返った。 「水滴を、瞬時に凝結――魔法使とはな」 「貴方こそ――人が住まう世界に何の御用ですの、堕天使様」 黒い翼の死神に、赤い髪の魔法使い。 狂気と愛が濃厚に絡み合い、身体に傷を負った男と心に傷を負った女が向かい合った。 to be continued・・・・・・ |
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