第十三話 「雪姫」 |
期待と不安、逡巡と焦燥で胸の内がざわめく。 兄の微かな手掛かりを掴んだ直後に暗がりの襲撃、状況の把握に苦しむ。 無数の焼死体が転がる現場。遺された血の跡を辿った先に――黒衣の翼を持つ男、堕天使。 単独行動をせず、可愛らしい正義の役人を連れてくるべきだったと後悔。 緊張に震える身体を冷やす雨が、対立する二人の頭上より降り続ける―― 「貴方と事を構えるつもりはありませんわ。物騒な物を下げて頂きたいのですが・・・・・・?」 「――」 男の立振る舞いに変化はない。油断なく、漆黒の瞳を向けるのみ。 力を見せた事で警戒しているのだろう。魔法使の素手など、何の安心も与えない。 隙を見せれば殺される。睨み合えば消耗する。戦えば――死ぬ。 冗談ではない。 ミフレには御世話になっているが、民間人としての範囲内。善意を含めても、感謝で許される。 役人である彼女に協力して、大量殺人事件の解決に命を賭けるつもりは少しもなかった。 居なくなった兄の情報――求めているのは、その一点のみ。 アイナは小さく一呼吸して、唯一の手掛かりである壊れたサングラスを取り出した。 「一つ、お聞きします。このサングラスをつけた方を御存知ありませんか?」 丁寧に質問、距離は一定、早鐘を打つ心臓―― サングラスを着用する人間など、この広い都を見渡せば何人も見つけられる。 この質問に効果があるのはこの日この時間――この場所。 辿った道を戻れば焼けた死体置き場、サングラスは殺人現場に落ちていたのだ。 何か知っているのならば、返答無くとも反応は期待出来る。 男の人格を信じていない。相手は人間ですらない。 良心を期待するには、この男が発する雰囲気は危険過ぎた。血生臭さとは別種の陰湿性を感じる。 兄の行方を追っていく内に踏み込んだ虎口、少女は何も知らずに迷い込んだ哀れな羊。 捕食される前に連れ出す、大事な想い人を。 「・・・・・・あの男の仲間か」 「! 知っているので――っ!?」 手繰り寄せ続けて結び付いた、確かな手応え。 今まで何度も失望を味わっていただけに、喜びは急激に膨れ上がる。 警戒心を半ば忘れるほどに、緊張感を歓喜で緩めて―― 身を乗り出した瞬間、少女は己の迂闊に気付くのと同時に思い知った。 掴んだのは意地悪で優しい人ではなく――死神の手であった事に。 アイナの言葉が終わるより早く、男は音も無く接近する。 駆け出すという表現すら追い付かない、速さ―― 虎の尾を踏んだ時には既に遅い。虎の姿を見たその時に、羊は逃げ出さねばならなかった。 男は闇に消え、雨の水滴を切り飛ばし―― アイナの白い柔肌を、麗しき真紅に染めた。 「あぅっ――が・・・・・・ぐぅ・・・・・・ぁ・・・・・・」 衣服を突き破る感触―― 狭苦しい路地裏で男女が重なり合い、皮と肉と血管と神経を奥深く貫いた。 少女の美しい肢体に奥深く突き刺さり、無惨に空いた穴から血を噴き出す。 あまりの激痛に助けも呼べず、苦痛に苛まれた呻きが零れるのみ―― アイナの口から、蛙を踏み潰したような声が漏れた。 悲鳴は肺の底で殺されて、意味の無い空気の塊が唇の隙間からヒューヒューと寂しく響かせる。 (さ、刺され――う、そ、な・・・・・・ぜ、こん、な――) 肩が痛い、胸が痛い――心が痛い。 身体から急激に力が失われていき、立っていられなくなる。 男が危険だと分かっていても、反応さえも出来なかった。 どれほど力があろうと、豊かな才能があろうと関係ない。 戦う術を持たなければ、相手を倒す意思が無ければ、心に覚悟が無ければ――戦場には立てない。 鼠が猫を噛めても、羊が虎を御せる道理は無かった。 「・・・・・・に、い・・・・・・さん・・・・・・」 「――!」 血に濡れた頬を、一筋の涙が洗い流す―― どうしてこんな事になったのだろう・・・・・・? 自分はただ想い慕う兄に会いたいだけなのに――それだけで、充分幸せなのに。 暗く染まる視界の中で、少女は空虚に嘆く。 「兄、だと・・・・・・? お前は、あの男の妹なのか!?」 奇妙な焦りを含んだ男の声が耳を打つが、激しい雨音が無常に掻き消す。 眠ってしまえば、何もかも忘れられる。 優しい兄に会えるのならば、夢でも何でもかまわない。 意識が泥のように沈んでいく感覚は、甘く切なく――優しい。 アイナは哀しく微笑み、ゆっくりと――瞳を――閉じて―― 「・・・・・・兄だけでなく、妹まで殺してしまうとは・・・・・・ スミレ、俺は・・・・・・」 ――!? ――白い花びらが舞う、静寂と白銀の世界。 一年中雪で覆われた大地に住まう、哀しき存在。 澄んだ水面を白く染めて、美しい音色を奏でる―― 伝承曰く――その音色は天に悲しみを誘い、大地に雪を降らせると言う。 凍てついた氷の大地で、悲しき風音が孤独に咽び泣く。 深い雪に閉ざされた、銀雪を纏いしモノ。 その名は―― 男が見せた一瞬の躊躇い、兄を想う妹への憐憫。 男の脳裏によぎる何かが、凍りついた理性に温かなものを与えてしまう。 そして――熱く流れる少女の血が、凍てつく。 「――なにっ!?」 真っ赤に濡れた傷口を、蒼い氷が覆っていく。 破れた服を見繕うように、全身を濡らす水滴が凍り付いていった。 吐き出される冷気が雨と擦れて、白い霧を生み出す。 実感として生み出される冷たさに、男は突き刺した少女からナイフを抜き出す。 繊細な音を立てて、刃が折れた―― 「氷雪系の魔法――いや、違うな。お前は――!」 「ウ、フフ・・・・・・」 一粒の粉雪のように儚げに消える命が、哂う。 底冷えする冷たい眼差しを、神に捨てられた天使に向けて―― 残酷に、少女が笑う。 宵闇に浮かぶ、氷の様に冷たい青色の髪をなびかせて。 「雪の精霊、『氷精』か。まだ生き残りがいたとは。 お前の兄は人間では――っ」 「――かん、けい・・・・・・ありま、せんわ・・・・・・」 血に濡れた唇をそっと舐めて、アイナは男を抱き締めた。 優しく、愛しく――殺したいほど、恋焦がれて。 白く濁った霧の世界で二人きり、生と死が交差する。 「私は・・・・・・にい、さんの、妹です・・・・・・」 ――刺された傷は深い。立っていられるだけで、奇跡。 息はか細く、白い冷気を纏って絶え絶えに吐き出されるだけ。 アイナに、恐怖は無かった。 冷たくもおぞましい家庭に生まれて、人形のように愛されるだけの自分。 生きる意味を与えてくれたのは――温かい心をくれたのは、兄だけ。 凍てついたこの命、最後に兄の為に使おう。 「兄に危害を――っ・・・・・・くわえる人は、許しませんわ!」 「やめろ!? お前も死――」 "女王の抱擁" 白い霧が、氷に閉ざされる―― 冷酷な殺意も、大切な人を想う気持ちも、何もかもを飲み込んで。 暗闇の路地裏で、天使と精霊が氷の彫像となりて立っている。 遺されるのは――地面に転がる、壊れたサングラス。 少女の初めての旅は今、終着駅を迎えた。 to be continued・・・・・・ |
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